絵画作品
一水一切
物語り
私が山で暮らす中で、大自然の力の前に人間の無力さを何度も思い知らされました。
嵐の夜に娘と布団の中で身を寄せ合いながら、命を守ることだけを願って過ごした日。
雪に閉ざされ、薪も電気も使えず、ただ静かに救助を待った日。
動物たちと同じように自然に翻弄される中で、私たち人間もまた、自然の一部でしかないと実感する瞬間が幾度もありました。
そんな時、お釈迦さまの言葉が心に浮かびます。
「母がひとり子を命がけで守るように、すべての命に対しても、限りない慈しみを起こすべし。」
(スッタニパータ 第八章より)
この言葉に導かれるように、私は気づいたのです。
娘を守りたいと思うように、すべての生きとし生けるものは、等しく儚く、尊い命であること。
そして、それらすべては互いに依存しあい、関わり合うことでしか存在できないということ。
その視点を持ったとき、世界の境界線は意味をなくしていきました。
山と空、人と自然、私とあなた。
皮膚という輪郭さえも、意識しなければ境は存在せず、すべては溶け合い、ひとつながりの現象としてそこにあるように感じられたのです。
あらゆる命が互いに繋がり、循環し、支え合ってこの世界を構成している。
そう思えたとき、また別のお釈迦さまの言葉が浮かびました。
「すべての生きとし生けるものは、幸せであれ。」
(スッタニパータ 第八章より)
この世界そのものが、無数の命と意識が響き合って現れる現象であり、それらは互いに慈しみ合いながら存在している。
もしかしたら、それこそが仏陀が見ていた「真理(ダルマ)」であり、「涅槃(ニルヴァーナ)」なのかもしれないと感じました。
この作品《一水一切》では、水を「循環」と「つながり」の象徴とし、
世界のすべてが溶け合い、繋がり、ひとつの大きな生命として響き合っている姿を描きたいと考えました。
作中に登場する飛天たちは、仏の出現に際し、花を撒き音楽を奏でて祝福する存在です。
平等院の壁に彫られた飛天像の豊かな表情に、無邪気で優しい眼差しを感じ、
彼らが見えないところで今も命の循環を見守り、祝福してくれているように思いました。
この作品は、私なりの「お釈迦さまが見ていた世界」へのまなざしの第一歩です。
嵐の夜に娘と布団の中で身を寄せ合いながら、命を守ることだけを願って過ごした日。
雪に閉ざされ、薪も電気も使えず、ただ静かに救助を待った日。
動物たちと同じように自然に翻弄される中で、私たち人間もまた、自然の一部でしかないと実感する瞬間が幾度もありました。
そんな時、お釈迦さまの言葉が心に浮かびます。
「母がひとり子を命がけで守るように、すべての命に対しても、限りない慈しみを起こすべし。」
(スッタニパータ 第八章より)
この言葉に導かれるように、私は気づいたのです。
娘を守りたいと思うように、すべての生きとし生けるものは、等しく儚く、尊い命であること。
そして、それらすべては互いに依存しあい、関わり合うことでしか存在できないということ。
その視点を持ったとき、世界の境界線は意味をなくしていきました。
山と空、人と自然、私とあなた。
皮膚という輪郭さえも、意識しなければ境は存在せず、すべては溶け合い、ひとつながりの現象としてそこにあるように感じられたのです。
あらゆる命が互いに繋がり、循環し、支え合ってこの世界を構成している。
そう思えたとき、また別のお釈迦さまの言葉が浮かびました。
「すべての生きとし生けるものは、幸せであれ。」
(スッタニパータ 第八章より)
この世界そのものが、無数の命と意識が響き合って現れる現象であり、それらは互いに慈しみ合いながら存在している。
もしかしたら、それこそが仏陀が見ていた「真理(ダルマ)」であり、「涅槃(ニルヴァーナ)」なのかもしれないと感じました。
この作品《一水一切》では、水を「循環」と「つながり」の象徴とし、
世界のすべてが溶け合い、繋がり、ひとつの大きな生命として響き合っている姿を描きたいと考えました。
作中に登場する飛天たちは、仏の出現に際し、花を撒き音楽を奏でて祝福する存在です。
平等院の壁に彫られた飛天像の豊かな表情に、無邪気で優しい眼差しを感じ、
彼らが見えないところで今も命の循環を見守り、祝福してくれているように思いました。
この作品は、私なりの「お釈迦さまが見ていた世界」へのまなざしの第一歩です。
作品概要
一水一切
素材:パネル・土・麻布・日本画煉絵具・アクリルエマルジョン・岩絵の具・金箔・水金箔・洋金箔・アルミニウム箔
サイズ:M50